「イスラム教」を何と呼ぶべきか、「イスラム教徒」を何と呼ぶべきか

イスラム教について比較的理解があると思われるサイトでは、「イスラム教」のことを「イスラーム」(もしくは「イスラム」)、イスラム教徒のことを「ムスリム」と呼ぶのが比較的一般的なものと思われる。しかし私はこれらに疑問を持っている。


まず、「イスラム教徒」を「ムスリム」と呼ぶ件について。
最初に「イスラム教徒」の定義をしよう。「イスラム教徒」という言葉の意味するものが「ムハンマド創始者とする『イスラム教』の信者」であるということには、恐らく疑問の余地はあるまい。ここで重要な点は、「イスラム教」以前、すなわち大雑把に言って6世紀以前には「イスラム教徒」は存在していなかったことになる。
一方、「ムスリム」とは何であろうか? 非イスラム教徒は「ムスリム」=「イスラム教徒」としているが、「イスラム教徒」にとってはそうではないようである。それは、そもそも「ムスリム」とはアラビア語で(神に)「帰依した者」という意味であり、例えば
アブラハムユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなかったが、良きムスリムであった」
といったような言葉があるからである。すなわち、「イスラム教徒」にとって「ムスリム」とは、ムハンマドとアル・クルアーンによって世に現れることになった「イスラム教徒」を意味しているのではなく、神(アッラー、エローヒーム、アドーナーイ、ロード、ゴッド)に帰依した者一般を指すわけである。
ムスリム」とはこのような意味であるため、これを「イスラム教徒」を指す言葉として用いるのは、例えば以下のような問題がある。

また、イスラム教やキリスト教で言うところの「神」とは、例えば神道ギリシャ神話で言うところの神ではなく、「真実」「真理」とでも言うべきものである。しかし、真理に仕えんとするのは私のような仏教徒でも同じことである。
つまりは、他の宗教を信じている人のことを「〜教徒」と呼ぶ一方で独り「イスラム教徒」を表す言葉として「ムスリム」(=神/真理に帰依した者)という言葉を用いるのは、それでは非イスラム教徒は神/真理に帰依していないのか、ということになる。それは明らかにイスラム教を唯一絶対の宗教としているようであり、非イスラム教徒的には到底容認できるものではない。
ということで、私は「イスラム教徒」をさす時は「イスラム教徒」という言葉を使い、「ムスリム」という言葉は使わないことにしている。さて、日本語では「イスラム教徒」という丁度良い言葉があるのだが、例えば英語では、「イスラム教徒」にあたる単語は「Muslim」しかないようである(「Islamist」は「イスラム原理主義者」的なニュアンスがあるようであり、また「Mohamedan」は蔑称になるらしい)。このような場合は、、、「『Muslim』はアラビア語の単語ではなく、『イスラム教徒』を意味する英語である」とせざるを得ないだろう(「言語名としての『ハングル』は韓国語ではなく、『韓国語/朝鮮語』を意味する日本語である」というのと似た感じに)。


次に、「イスラム教」を「イスラーム」(もしくは「イスラム」)とする件についてである。「イスラーム」は「ムスリム」と同語根の、(神への)「帰依」を意味するアラビア語であり、やはり「『イスラム教』だけが神への帰依なのか???」という問題が発生する。
しかし、この件については許容の範囲内とせざるを得ない。例えば私は浄土真宗(いろいろクセはあるが)であるが、「浄土真宗」とは、「浄土の教えこそ真の教え」という意味であり(非浄土真宗系のサイトで「『真の浄土宗』という意味」と紹介されている場合もあるが、少なくとも名前の由来としては間違いっぽい)、要するに浄土教以外の宗教(キリスト教イスラム教、日蓮宗神道、etc.)は真の教えではない、ということになる。自分の宗教もそのようなことを言ってるのだから、「イスラム教」のことを「イスラーム」と呼ぶのも、相互主義の立場から認めなければならないだろう。
ということで、私は「イスラム教」を表すのに「イスラーム」や「イスラム」といった表現を、(必ずしも快くではないが、お互い様ということで)使っていこうと思う。