「古地図の竹島」は日本の竹島領有の決定的証拠か?

日本の竹島領有の決定的証拠として、しばしば「日本の古地図に竹島が描かれている」ことが挙げられる。しかし、これが本当に日本の竹島領有の決定的証拠となるかについては、やや疑問がある。というのも、それらの地図には鬱陵島も一緒に描かれているからである。

鬱陵島は、17世紀に日朝間で領有権を巡る争いが起こったが、1696年に実質的に朝鮮領ということで決着した*1。この時、日本は鬱陵島は放棄したが竹島は放棄していない、というのが日本側の立場であるので、もし「鬱陵島が日本領となっておらず、竹島のみ日本領となっている古地図」が存在すれば、それは日本の竹島領有の決定的証拠と言える。

しかし、実際の古地図では、竹島鬱陵島はセットで描かれており、両者で所属が違うとした地図は無い。以下にいくつかの古地図を見てみる。

竹島(地図上では松島)と鬱陵島(地図上では竹島一云磯竹島)の描かれた地図。両島は実際よりもずっと接近して描かれ同じ色に塗られている。日本の地図に描かれているから日本領という立場もありうるが、地図上には朝鮮の東莱(現在の釜山付近)も描かれており、竹島鬱陵島がこの地図でどちらの領土と主張されているかにはやや曖昧さがある。いずれにせよ、竹島・鬱領島はセットで描かれている。

竹島(地図上では松シマ)と鬱陵島(地図上では竹シマ)を両方とも日本領とした地図。竹島・鬱領島はセットで描かれている。

竹島(地図上では松シマ)と鬱陵島(地図上では竹シマ)を両方とも日本領とした上で、竹島隠岐の中間近くに描かれている地図。竹島鬱陵島をセットとしていない例と見ることも可能かもしれないが、縮尺の関係上こうなっただけとも言える。いずれにせよ、竹島鬱陵島の双方を日本領としている。

鬱陵島竹島とともに日本領としている件については、ひとつには「必ずしも鬱陵島を朝鮮領と認めたわけではないという意志のあらわれ」と捉えることもできるが、一方で「鬱陵島竹島はセット。したがって鬱陵島が朝鮮領なら竹島も朝鮮領」という主張を補強するものとも捉えられる。

なお、韓国側の古地図には、そもそも竹島と思われる島は描かれていない。韓国の地図では、鬱陵島の近くに「于山島」という島が描かれており、韓国側はこれを現在の竹島であると主張している。特に古い時代の地図に見られるこの島の正体は実際のところは不明であるが、時代が下ってくると、この島は明らかに鬱陵島近傍の竹嶼(韓国名:竹島*2)として描かれている。韓国側は、これら時代の下った地図の「于山島」についても現在の竹島であると主張しているが、これは強引であると言わざるを得ない。また、韓国側では1905年頃には現在の竹島を「独島」と呼んでいたが、当時の韓国で「独島」と古代の「于山島」を同じ島とする認識があったかどうかも不明である。韓国側が古くから竹島の存在を正確に認知していたとは言い難い。

しかしながら、ここで問題がある。17世紀の鬱陵島領有問題に関連する事情で、朝鮮側は「日本の言う松島は朝鮮領の于山島」という認識を持つようになっていた。当時の日本では「松島」は現在の竹島を指す。当時の朝鮮はそもそも現在の竹島の存在を知らなかった可能性が高いが、ともかくも朝鮮側は現在の竹島を、その実態を知らないまま自国領と考えていたのである。一方の日本側においても、竹島の存在こそ知ってはいたものの、その実態を正確に把握していたかどうかは怪しく、明治初頭には、恐らく不正確な知識に基づいてではあるが、明治政府が島根県に対して「松島は朝鮮領」と回答したことがある。

つまり、ある時期においては、いずれも不正確な知識に基づく国内向けのものではあるが、日本と朝鮮の双方が「松島は朝鮮領」としていたわけである。ここでいう「松島」を具体的にどの島と捉えるべきかにはおおいに曖昧さがあるが、解釈によっては「ある時期においては、日本と朝鮮の双方が竹島を朝鮮領と考えていた」と取ることも可能である。

個人的には、韓国側が19世紀以前に竹島の存在を知っていたとは言い難いので、総合的に見れば竹島は日本領とするのが良いと思う。しかし、立場によっては、「不正確な知識に基づくものとはいえ、日本と朝鮮の双方で同じ意見のことがあった」という点を重視し、竹島を韓国領とするのを良しとする見方もあるかもしれない*3。この問題を解決するには、第三者の判断を仰ぐしかないだろう*4

*1:名目的にはやや曖昧な決着としたようである。

*2:「たけしま」ではなく、「チュクト」、「チュクとう」、「ちくとう」などと読むべきだろう。

*3:なお、このことを根拠として竹島を韓国領とするのは、現在の韓国政府の立場とは異なる。

*4:この具体的な実現法のひとつが、日本政府の主張する国際司法裁判所への提訴だろう。