「漢文」の意味

微妙にマニアックな漢和辞典である「全訳 漢辞海」には、面白い点、有益な点が多々あるものと思われるが、その一方で不満も当然ある。私の感じている不満の一つは「漢文」という単語の説明についてである。

「漢辞海」には、「漢文」という単語の日本語での語義として

  1. 中国の文語体による文章・文学。
  2. 日本人が中国の文語文の文法法則に従って書いた、漢字ばかりの文章。

の二つが載っている。私は個人的には、最初の意味は全くそのとおりで問題ないと思うが、二番目の意味はかなりナンセンスなように思える。

何故ナンセンスなのか。ここで、上記の「漢文」の説明文に従って、例えば「英文」という単語の語義を考えると、次のようになるであろう。

  1. 英語による文章・文学。
  2. 日本人が英語の文法法則に従って書いた、ローマ字ばかりの文章。

この二番目の意味は、確かにそれも英文ではあるが、それを敢えて「英文」という単語の第二の意味にするのは奇妙である。

「日本人が英語の文法法則に従って書いた、ローマ字ばかりの文章」と書かれると、「もしもしそうなら、日本人以外の英語非母語話者、例えば中国人やアラブ人が英語の文法法則に従って書いたローマ字ばかりの文章はどうなるのか」という疑問がわいてくる。それ以前に、そもそも「日本人が英語の文法法則に従って書いた、ローマ字ばかりの文章」は「英語による文章」ではないのか、という疑問もある。

「日本人にとって英語はあくまで外国語。母語話者の英語とは違う」という意見もあるかもしれない。しかしもしそうなら、二番目の定義との兼ね合いから、「日本人以外の英語非母語話者が英語の文法法則に従って書いた、ローマ字ばかりの文章」は、「日本人が英語の文法法則に従って書いた、ローマ字ばかりの文章」でもないので、「英文」に含まれないことになってしまう。あるいは、「日本人の書いた英語は『英語による文章』ではないが、日本人以外の英語非母語話者の書いた英語は『英語による文章』である」ということになるのだろうか。

「漢文」についても同様である。「日本人が中国の文語文の文法法則に従って書いた、漢字ばかりの文章」とされてしまっては、「だったら朝鮮人ベトナム人が中国の文語文の文法法則に従って書いた文章はどうなるのだ?」ということになってしまう。或いは「中国の文語文の文法法則に従って書いた」文章であっても、それを書いたのが日本人か非日本人か(あるいは中国人か非中国人か)によって「中国の文語文による文章」になったりならなかったりしてしまうのだろうか。


「漢辞海」は、漢文をあくまで日本語とは違う「外国語」として捉えており、随所にそのような思想の断片が見られる。おそらく「漢文」の語義も、「漢文は外国語であって、日本語とは違う」ということを強調するために生まれたのではないかと思われる。しかし、漢文を外国語として捉えるのは画期的で素晴らしいこと*1だとしても、この「漢文」の説明に関しては、的を外しているように思う。

*1:漢和辞典を英和辞典のように使えない、というのは個人的にかなり不満である。漢辞海も一般的な外国語辞典に比べるとかなり使いにくい気がするが、方向性だけでも「英和感覚」を目指しているのは素晴らしい。