「正しい日本語」考

先週は諸事情でなかなか新聞(中国新聞)を読むことができなかったが、
日曜日にまとめてざっと目を通してみた。
いろいろあったが、とりあえず「正しい日本語」について思うところがあったので少し。

「間違った日本語」としては、「ら抜き言葉」「肯定の意味で全然を使うこと」「二重敬語」がよく槍玉にあがる。しかし、これらが本当に「間違った日本語」と言えるのかどうかには、いずれも異なった意味で疑問の余地がある*1。以下、一つずつふれていく。なお、論拠その他にはかなり怪しい部分もあるので、その辺は御了承ください。

ら抜き言葉

ら抜き言葉」は、「間違った日本語」と言えば「間違った日本語」である。何故なら、国文法では「ら」は抜いてはいけないことになっているからである。しかし、だからといって「ら抜き言葉」が非難されるべきかどうかというと、それには疑問の余地がある。
「間違った」という言葉には一般に否定的ニュアンスが伴い、その背後には恐らく「間違った日本語は日本語を劣化させる」という思想が伴っているものと思われる。この思想は間違っている。何故なら、言語はそもそも変化するものであり、より古い時代から見て間違った用法が新時代の正しい言語を形成していくからである。部分的には「進化」っぽい変化をし、部分的には「退化」っぽい変化をする。しかし、それでその言語の価値がどうこうなったりすることはないし、「劣化」することもない。
一般論はともかくとして、話を「ら抜き言葉」に戻そう。「ら抜き言葉」は、その起源には諸説あるようだが*2、結果的に日本語にとっては「退化」というより「進化」のようである*3
そもそも「ら抜き言葉」とは何であるかというと、上一段動詞及び下一段動詞*4に接続する「られる」という助動詞の「ら」を抜いて「れる」とする表現である。この「られる」には可能・尊敬・受身の意味があるが、「ら抜き言葉」は可能の意味の場合にのみ表れる。
このような「ら抜き言葉」は、日本語の「可能」と「尊敬・受身」の区別を分かりやすく表すことにつながる。すなわち、現在の標準語では全く同じ表現になる上一段・下一段動詞の「可能」と「尊敬・受身」が、「ら抜き」では明確に区別されるのである。また、五段動詞でも可能の助動詞は「れる」、尊敬・受身は「られる」なので、それとの対応もよくなる。
以上のように、「ら抜き言葉」はかなり合理的であり、これを「日本語の進化」として肯定的に見る意見もあるようである*5

「肯定の意味で全然を使うこと」

この背後にはいろいろと面白い事情があるらしい。まず、「全然」に肯定の意味があるかというと、「全然」は文字どおりの意味は「全く然り」であり、肯定文に使うほうがむしろふさわしい、という意見もあるようである。また、「全然」を肯定の意味で使うことに違和感があるかどうかと尋ねると、若年層と高齢者は「違和感ない」と答え、その中間の年齢層が「違和感がある」と答えるらしい。つまり、「肯定の意味で全然を使う」というのは、近年生まれた「本来は間違った用法」ではなく、一時期廃れていた用法が近年復活したもののようである。肯定的な言い方をすれば「本来は正しい用法」、否定的な言い方をすれば「古くさい用法」とでもなろうか。しかし、「肯定の意味で全然を使うこと」には特に古くささはないと思うし、個人的には「本来は正しい用法」と見なして全然いい気がする(←肯定の意味で使ってみた)。

「二重敬語」

「二重敬語」は、古代より日本語で一貫して使われてきたのが、戦後「新時代にふさわしくない」として半ば人工的に「間違った日本語」にされたものらしい。別に復古主義保守主義に加担する気はないが、「二重敬語」は言わば「戦後意図的に否定された、本来あるべき正しい日本語の姿」なわけである。しかし、戦後日本に否定的な復古主義者や保守主義者の中には、いろんな意味でトンデモな理由で「二重敬語」を「間違った日本語」として批判する人もいるらしい。あくまで一部でかもしれないが。。。

*1:そもそも「正しい日本語」なるものが存在しているのか、という疑問もあるが、ここでは触れない。今日の日記での「正しい日本語」の具体的な意味は、例によって曖昧にさせていただく。

*2:起源については、「標準語の中で独自にできあがった」とも「一部方言の用法が全国化した」とも言われているようである。

*3:ここで、「進化」と「退化」の判断基準は「なんとなく」とする。あらためて言うが、「進化」や「退化」に価値の増減は伴わない。

*4:上一段動詞及び下一段動詞は国文法では別の動詞として扱っているようだが、日本語教育文法では同じ動詞として扱う。両者の違いは語幹に限定されているからである。

*5:あらためて言うが、言語の「進化」は別に良いことでも悪いことでもない。