憂思獨傷心 - 生きる糧とその逆と

世の中には、思い初めたままの行方の知れぬ恋に焦がれ、それのみを生きる糧にして生きている人もいるかもしれません。けれども私にとっては、思い初めたままで行方の知れぬ恋はそう単純に生きる糧にはなってくれないようです。今度こそ本当に自分に自信が持てるようになったと思ったここ数日でしたが、きっかけとも言えないきっかけで、再び地の底に落ちてしまいました。

今の気持ちに近い漢詩があります。以前、たまたま古本で買った文選(その時は「文選」という単語さえ知らなかった)をぱらぱらめくっていてたまたま見つけた、実はかなり有名らしい阮籍(三国魏の詩人)の詠懷詩十七首その一です。

夜中不能寐 (夜中 寐る能はず)
起座彈鳴琴 (起座し 鳴琴を弾く)
薄帷鑒明月 (薄帷 明月を鑑し)
清風吹我襟 (清風 我が襟を吹く)
孤鴻號外野 (孤鴻 外野に号し)
翔鳥鳴北林 (翔鳥 北林に鳴く)
徘徊將何見 (徘徊 将た何れか見ん)
憂思獨傷心 (憂思 独り心を傷むのみ)

「徘徊將何見」の「何見」は、「なにをかみん」と読んで「何を見るというのだろうか」という意味にとる場合が多いようですが、「何」を「何時」(いづれ)の意味にとって、「いつ会えるというのだろうか」とする立場もあるようです。ここでは後者の立場を取っています。個人的にそのほうが「徘徊」という言葉の存在が自然になる気がするし(前者だとなんか唐突)、それに自分の心境はまさにその後者だからです。