文学的「科学的正確性」

昨日の中国新聞によると、1990年に起きた「足利園児誘拐殺人事件」で殺人罪に問われ無期懲役が確定した受刑者について、検察、弁護側双方のDNA鑑定の結果が「不一致」となり、確定判決の有力な根拠とされた「鑑定によるDNA型の一致」が覆されたことにより再審の可能性が高まりそうだという。

この件について、中国新聞には「科学万能視に一石」というタイトルの解説も載っていた。それから読み取れることは、この事件の判決が行われた時、DNA鑑定の信頼性は正しく判定された場合で約99.9%とされており、その他にそもそも正しく判定されるかどうかに不安があったという。裁判所は当時、この間違っている可能性が理想的な場合でも0.1%以上ある(現実にはこれより大幅に高いことはほぼ確実と思われる)方法を「正確で、信頼できる」とし、且つ弁護側が独自の鑑定で得た不一致という結果は取り上げなかったという。

文学的な裁判官にとっては、「最も理想的な場合には99.9%正しい」ということと「いついかなる場合も100%正しい」ということの間にはたいした違いは無く、当時の弁護側の「不一致」という結果は捜査側の「一致」という結果に水を差すものでは無かったのかもしれない。しかし、科学者的「科学的正確性」の観点から見ると、間違っている可能性がどんなに少なくても0.1%はあり、且つその「どんなに少なくても」という状況が実現されていないことがほぼ確実な状況というのは、「いついかなる場合も100%正しい」というのとは似ても似つかない状況である。そもそも科学の世界に「いついかなる場合も100%正しい」などという状況はあり得ないが、これはそういう哲学的命題のレベルに全くもって達していない、現に正しくない場合が身近にいくらでも起こりうる状況である。しかも今の場合、間違っている可能性があることを直接示す「不一致」という結果まで当時既に出ている*1。つまり、この鑑定結果は科学者的に見て根拠付きで「不正確で、信頼できない」結果であり、これを「正確で、信頼できる」とする「科学万能」主義は、文学的情緒に基づく妄想に過ぎない。

なお、解説から読み取ると、その後の科学技術の進歩に伴い、DNA鑑定の信頼性は現在約99.9999998%になっているようである。なお、この99.9999998%という正確さなら、科学者的「科学的正確性」の観点から考えて世界の人口と比べても誤りの起こる可能性はかなり小さいが、例えばあなたの目の前にボタンがあり、「このボタンを押してください。99.9999998%の可能性で何も起こりませんが、0.0000002%の可能性で地獄に落ちます。」と言われた場合、何の不安も感じずにボタンを押せる人は少ないだろう。文学的情緒は、こういう時にこのような方向で発揮してほしいものである。

さて、この解説のタイトルは「科学万能視に一石」であったが、いわゆる「科学万能」主義が多分に文学的情緒に基づくものであるということと、判決の根拠となった文学的「科学的正確性」を否定したのが技術者・科学者による「科学技術の進歩」の結果であるということは、安易且つ不適切な科学不信に陥らないためにも、しっかりと心得ておくべきことだろう。

*1:この「不一致」という結果を覆すには、少なくとも「何故その鑑定は『不一致』という誤った結果を出したのか」ということを説明する論理が必要であり、自分の側の結果と違うことのみをもって否定することはできない。